雲母漬老舗穂野出

雲母漬について

雲母漬の由来とは?

霊峯比叡山は洛北一乗寺の里をへて比叡山、山王院に通ずる坂道を雲母坂又は勅使坂とも云う。ここから山へ登る名僧達がこの難所雲母坂の和労堂に憩う人々の多くはこの茶店にて中食し「みそ漬」を賞味しこの地特有の風味を好評して昔より「雲母漬」と名づけられた故えんである。
登山者が急坂をのぼる苦しさの中の楽しい味の一つとなったので、その名残りと伝統と、ともに今に至るまで好評を博している。
いま雲母漬の由来を記し、風味をかたねるゆかしさを推奨する所以である。
(一乗寺第五十世曼殊院門跡 大僧正 山口光圓)

雲母漬

鷲尾家雑掌宅跡

鷲尾家雑掌宅跡看板

鷲尾家雑掌宅(わしおけざっしょうたく)跡 (田辺家)

田辺家は江戸時代の元禄(げんろく)年間より「雑掌」(ざっしょう)として鷲尾家(わしおけ)に仕えてきた。江戸時代、「雑掌」とは公家に仕える事務職員のような役割を果たしていた。
室町時代の永正(えいしょう)年間に「二水記」(にすいき)を著した公家の鷲尾隆康(わしおたかやす)の後裔、鷲尾家は一乗寺村に家領を有し、田辺家にその管理をさせていたほか、納米の用務や、時には家臣として宮中出仕もさせていたといわれる。
江戸時代になって、一乗寺村は諸寺の寺領や公家の家領であったばかりでなく、比叡山への道筋である雲母坂(きららざか)にあったところから、田辺家が番所を兼ねることもあった。幕末の洛中の騒乱、戦火を避けて、鷲尾家に伝わる諸々の古文書等がここに保管され、今日に至っている。
後醍醐天皇などの宸翰(しんかん)七巻をはじめ、沢庵(たくあん)禅師之偈(げ)之書、後水尾天皇修学院離宮御幸御道筋(ごこうおんみちすじ)絵図一巻、一休(いっきゅう)和尚之書等、多数の文化財、美術品を保有する。
中でも寛永(かんえい)十一年(一六三四)江戸幕府三代将軍 徳川家光上洛の際、京都中に銀五千貫を下付した時の町民代表者の署名捺印の請取覚(うけとりおぼえ)は貴重な史料で、この覚書により当時、京中の家紋が三万七千三百十三戸あったことがわかる。
(京都市)

穂野出について

穂野出は元禄二年創業の老舗です。
契約栽培で厳選した小茄子を使用し、京都独特の白味噌で漬けたものを雲母漬と言います。この独自の漬物を創業時より一子相伝にて代々伝わる製法を守りながら全て手作り製造しております。
(店主敬白)

穂野出のイラスト